人類が今失いつつあるあらゆる善なる力(ちから)への回帰を促すファイナルアンサー映画

2分の1の魔法、やっばいなー・・・ と視聴から丸1日以上たった今も余韻の中に浸っております!
なにがヤバイのかもう一度考えてみた。
引き続きネタバレ

・ラスト10分、とにかく感情がバグる。やばい。
・なんでバグるかというと、あらゆる観客があらゆる「自分の見たい物語の結末」を、あの画と音楽なかに見出せるように「わざとそう作っている」のである。
・ピクサーが意図的に、ラスト10分のセリフをめちゃくちゃ絞ってるのがスゴイ。
→だから各々が「自分の見たい物語の結末」を勝手に補完→勝手に投影できちゃう。これはまじでヤバイ。
・ラストシーンの兄弟の抱擁で私が何を思ったかというと
→人間が人間で有る限り続くであろう普遍的な愛というものの完璧な美しさ。つまりそれは圧倒的な人類讃歌。ハレルヤ!
→救われたいと願う者は、他者を救うことでしか救われない、与えるものだけが与えられるという、人類の持つ愛それ自体への賛美。
→パパとバーリーの抱擁、イアンとバーリーの抱擁、対比するとバーリーの立ち位置は両方とも右側である。
→つまり兄弟の抱擁シーンで父親の立ち位置にいるのはバーリーではなくイアンなのである。
→バーリーがイアンにとっての父であったのは物語中の明確な画面(絵作り)で示唆されているが、この瞬間、イアンもまたバーリーにとっての父代りであった、ということが示唆されている。
→つまりつまり、イアンの愛の選択によって、彼は彼が願った「BE LIKE DAD」を完全に体現した。父のようになる、というのは少年時代からの脱却のメタファーで、これは少年が試練を経て完全な男になる、という物語だったのだ。。。
→そんでなんかこう、昨日も書いたけど結局これ「行って帰って」の「青い鳥」の話なんだけど、私が受け取ったメッセージは、「必要な力は、必要な時に自分の手の中に帰ってくるんだよ」って、失くなったと思ったものは実はひとつも失われてなんかいないんだよ、っていう、人類が今失いつつあるあらゆる善なる力(ちから)への回帰を促すファイナルアンサー映画なんだこれは!!(にんげんっていいな!)
→もう自分で何を言っているのか全然わかんない!!つらい!!
→感情がバグる!!!
→でもここまで書き出したのはあくまで「私が感じたラストシーン」であり、おそらく他の人はそれぞれ自分のえぐられた過去や感情と向き合うことになる。。。
→だから、100人に「2分の1の魔法」の感想聞いたら、まじで100通りのお気持ち表明があるんじゃないのかな、って思うわ・・・。
・とにかくラストシーンの受け取り方が多様すぎる。そこがやばい。
・あと地味にやばいのが、川流れのバーリーの過去トラウマ告白シーンが「たったの30秒しかなかったこと」
→ちょい前のピクサーならここで5分は時間割いちゃったと思うんよね・・・ディズニーもだけど。
→ズートピアのゴンドラのシーンとか、モアナとばーちゃんの邂逅シーンとか(え、ディズニー映画だけど、まぁいいやw) ともかくあれらの告白シーンって結構尺が長いじゃんか、それをここで、あえて、たったの30秒でさらっと流した。このピクサーの選択がすげえのよ!!!!
→たった30秒のシーンに抑えたことで、逆に、バーリーがこの思いをどれだけ隠し続けてきたのか、それが彼にとってどんなに思い出したくない過去であるか、今もまだ突き刺さったつらい記憶である、ということがしんどいまでに観客にのしかかってくる。
→このシーンを30秒にしよ!せやせや30秒でええわ!・・・と決めたピクサーが今回の勝利者だと思う。圧倒的拍手だよ・・・。

私ここ10年だとめちゃくちゃズートピアは推してるんですが、あれってテーマが今後50年保たないんですよね。
なんでって、あれは単に今を映した時事問題がテーマだから。
あまりに時世を汲みすぎていて、あれが10年20年後の人類に刺さるか?と聞かれると、私はちょっとウーン???ってなっちゃう。
逆に言うと、10年後にズートピアを見て、「え、こんなことで人類悩んでたの!?」ってくだらなく思っちゃうような未来を、私たちは目指していかないといけないんですよ。
だから、ズートピアは今っぽい物語であるし、今見るにはめっちゃいいけど、全然普遍的ではない。

その点Onwardはやべえっす。
人類が今後愛を喪失することは絶対にないので、この先100年お話が保つ。
私今、大真面目に作品としての優劣をモアナと比べてるんですが、ぶっちゃけラストにかけてのお話の純粋な美しさは、もしかしてOnwardのが勝つかも、って思ってます。
そんくらいにOnwardはやべえな、という語りでした。

書き殴りたかっただけー!!!! 以上。