海辺の尼か修道女@2018/6/14thu 12:30のPA

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久しぶりに東京ディズニーシーに行ってきました。

今回、自分の子供とシーに行ってきたんですけど、子供と一緒に行くシーってのが初めての経験だったんですよね。
つまり、私の子にとってはシーのファーストヴィジットだった訳ですが、まぁここでその話は後に回します。長くなるんで。

それで話を巻き戻すと、私、舞浜の年パスはあっさり数年でリタイアしましたけど、でも結局Dヲタをやめられなかったのでその後もちょくちょくシーにインパはしていました。
もちろん友達と行くことも多かったですが、一人で行くシーが本当に好きだったんですよね。

当時、一人でシーにインパしたら、何をするでもなくブラブラとパークを一周したり写真を撮ったり、ご飯を食べたり酒を飲んだりするのが後年(?)の私のシーの楽しみ方だったんですけど、なんかこれ、思い返すと私にとってシーとの対話の時間だったなぁ、と。
私、別にまだ頭はおかしくないので、これも大そう真面目に書いているんですが、一対一でシーと向き合う時間って、私にとっては祈りの時間だった。
別にTDSを神格化してるんではなくて、表現は難しいんですが、このパークが発する創造性、それは何十年経っても色褪せないクリエーター達のイマジネーションのことを指してるんですけど、そういうものと正面から向き合っていた気がする。
それは多分突き詰めると、神との対話というものに行動や心理は非常に近かったと思うんです。

積まれたレンガのひとつ、無造作なペイントのひとつ、そういう物を見つめている時間の中で、人間の作ったただの建造物の中に無限の物語を見つけること。
それは料理も同じで、なんかこうシーでシーっぽい食べ物を食べている間は、深い物語の中に身を委ねるというか、もう書いてて訳分かんなくなってきたのでここらで締めますけど、自分の中のTDS、外のTDS、それらが一体化する喜びというものが、あの日あの瞬間のインパには確かにありました。

で、昨日なんですけど。
子供と過ごすシーは当然のように祈りも物語もなく、私はただの1分も東京ディズニーシーという存在に向き合うことはなく。まぁずっと子供のお世話してた訳ですね。
まぁそれはそれで私に新しい喜びを与えてくれた。子と過ごすTDSは最上の喜びではあったけど、でもあの日感じた深い恍惚感のようなものも、私には同じようにかけがえのないものだった。
という話を書いていて、やっぱり私はあの日、海辺の尼か修道女に間違いなかったなと思いましたね。瞑想みたいなこと知らずのうちにしてたんじゃないでしょうか。自分でも笑っちゃうんですけど、ほんと我ながらオタクって面白いですよね。

願わくばあと10年とか、15年とかして子育ても落ち着いたら、また深く東京ディズニーシーと向き合ってみたい。
その時私はまた、東京ディズニーシーに自分なりの祈りを捧げるんだと思いますね。