東京ディズニーシーの失われた調和(それでも)@2018/6/27wed 21:00のPA

LINK: 本物の懐古厨@2018/6/26tue 01:00のPA – 想像国際空港
こんなことを書いた直後に、お前がそれを言うのかよって感じだけど・・・。

東京ディズニーシーが紡いできた完全な調和がなくなってしまったことが残念で仕方ない。
先々週、ポートディスカバリーを通りがかったら、シーライダーが出来上がったことでエリア一体の色味ががちゃがちゃになってて目を疑った。(なお、私はすでにシーライダー自体は2回乗っていて、アトラクション自体は結構好きです。悪しからず)
ちょうど差し込んだ陽の加減だったのかなぁ、シーライダーのカラーであるブルーとシルバーが、元々のPDのカラーであるターコイズとゴールドと半目しあっちゃって目も当てられない感じ。カラースクリプトもクソもなしという印象。
そういえば前回、前々回と、PDに行った時はあまり気にならなかったのだけど。なぜか今回だけは妙に目について悪い印象が私のなかに残り続けた。
こんなむちゃくちゃなカラーリングするくらいなら、別に海洋生物研究所だからって色を変える必要はなかったと思うんだけど。変なの。

アラビアンコーストも、キャラバンカルーセルのある王宮からシンドバッド方面に歩くに連れ下町になっていく、という設定が好きだった。
なお、これは正確はBGSではない。語られた記憶がないから。でも、そんなBGSは、語られなくてもおのずとゲストの中に芽生えて来るものだ。(自然発生的に物語は生まれていく。)
でもジャスミンのフライングカーペットができたことで、王宮から一番離れたところに王宮にあるべきものができちゃった。めちゃくちゃ。作った人何考えてるんだ。
変にジャスミン絡めてプリンセス狙いせずとも、シンドバッドのアトラクションでよかったのに。

まぁ言い出したらキリがなくて、ここ数年言いたい事は山ほど溜まってるんだけど。
それでも私は東京ディズニーシーが好きだから、今日も心の中のTDSを旅するように思い出す。記憶の中に残り続けてくれるなら、変わってしまってもまぁいいか。これからのTDSに期待だなって、そう自分を納得させているし、実際納得している。

でもどうしても消化できない、寂しくて仕方ない事がひとつだけあって。私の子供は、あの美しいTDS、全てのディズニーパークスの中で最も「調和」という言葉にふさわしいパークを知らずに生きていくんだなって。なんかもう悲しくて。
いつか子供が大きくなったら、昔ここはね、って、いっぱいTDSのこと話してあげたいけど、そんなこと話されても子供としては迷惑だよね。普通にお母さん何言ってんの?って引かれるでしょ^^;
あーあ、考えちゃうよなぁ・・・。

海辺の尼か修道女@2018/6/14thu 12:30のPA

久しぶりに東京ディズニーシーに行ってきました。

今回、自分の子供とシーに行ってきたんですけど、子供と一緒に行くシーってのが初めての経験だったんですよね。
つまり、私の子にとってはシーのファーストヴィジットだった訳ですが、まぁここでその話は後に回します。長くなるんで。

それで話を巻き戻すと、私、舞浜の年パスはあっさり数年でリタイアしましたけど、でも結局Dヲタをやめられなかったのでその後もちょくちょくシーにインパはしていました。
もちろん友達と行くことも多かったですが、一人で行くシーが本当に好きだったんですよね。

当時、一人でシーにインパしたら、何をするでもなくブラブラとパークを一周したり写真を撮ったり、ご飯を食べたり酒を飲んだりするのが後年(?)の私のシーの楽しみ方だったんですけど、なんかこれ、思い返すと私にとってシーとの対話の時間だったなぁ、と。
私、別にまだ頭はおかしくないので、これも大そう真面目に書いているんですが、一対一でシーと向き合う時間って、私にとっては祈りの時間だった。
別にTDSを神格化してるんではなくて、表現は難しいんですが、このパークが発する創造性、それは何十年経っても色褪せないクリエーター達のイマジネーションのことを指してるんですけど、そういうものと正面から向き合っていた気がする。
それは多分突き詰めると、神との対話というものに行動や心理は非常に近かったと思うんです。

積まれたレンガのひとつ、無造作なペイントのひとつ、そういう物を見つめている時間の中で、人間の作ったただの建造物の中に無限の物語を見つけること。
それは料理も同じで、なんかこうシーでシーっぽい食べ物を食べている間は、深い物語の中に身を委ねるというか、もう書いてて訳分かんなくなってきたのでここらで締めますけど、自分の中のTDS、外のTDS、それらが一体化する喜びというものが、あの日あの瞬間のインパには確かにありました。

で、昨日なんですけど。
子供と過ごすシーは当然のように祈りも物語もなく、私はただの1分も東京ディズニーシーという存在に向き合うことはなく。まぁずっと子供のお世話してた訳ですね。
まぁそれはそれで私に新しい喜びを与えてくれた。子と過ごすTDSは最上の喜びではあったけど、でもあの日感じた深い恍惚感のようなものも、私には同じようにかけがえのないものだった。
という話を書いていて、やっぱり私はあの日、海辺の尼か修道女に間違いなかったなと思いましたね。瞑想みたいなこと知らずのうちにしてたんじゃないでしょうか。自分でも笑っちゃうんですけど、ほんと我ながらオタクって面白いですよね。

願わくばあと10年とか、15年とかして子育ても落ち着いたら、また深く東京ディズニーシーと向き合ってみたい。
その時私はまた、東京ディズニーシーに自分なりの祈りを捧げるんだと思いますね。