【映画感想】ズートピア感想

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2016年4月24日、映画「ズートピア」を見てきました。まずはじめに、私は映画批評家ではありません。それどころか、まともな文章も書いたことさえありません。なのでこのような素人の感想を自分のブログとは言え全体公開でアップすること自体、ちょっとした緊張を感じています。ですがこの作品に深く感銘を受け、せっかくの自分のブログを開設したタイミングもあるので、ここに感想を書き残したいと思います。

ここに記すのはすべては個人的な感想です。どなたかの感想を否定するものではありません。パンフレットや他の方の感想を見る前に、慌てて書き殴りたいと思います。

なお、このページはすでに映画をご覧になった方向けのネタバレ込みのページです。未見の方はご覧にならないでください。

Zootopia

自分でもびっくりするくらいこの作品から感銘を受けたため、ここからの内容は重くて長いです。ご了承ください。


「ズートピア」を見てきた。これまでに見てきたどの予告とも違い、想像と違ったハードな社会派作品だったので度肝を抜かれてしまった。ディズニーはなんという作品を作ってしまったのだろうか! 今はただ、驚きを隠せない。

まず第一に恐ろしいのは、こんなハードルを自らあげて作ってしまって、このあと一体どんな作品を作っていけばいいというのか、ということだ。末恐ろしい。

第二に恐ろしいのは、子供の頃から、ただ「ディズニー」が好きで、東京ディズニーランドやその元となる映画作品を通じて夢を見ていた私だったが、ついに2016年、ディズニーだけどどうにも「ディズニー」らしからぬ(しかし実際のところはどこまでもディズニー的な・・・)とんでもないものを見てしまった。そんな畏怖の気持ちである。私はこんなディズニー作品はこれまでに見たことがない。どう考えたらいいのか、どう捉えたらいいのか、果たしてこれまでのディズニー作品とは違いすぎるために、物語を深く考えるよりも前に現在進行形で萎縮してしまっている状況だ。

第三に恐ろしいのは、この映画は凄まじく懐の深い作品であるということだ。人によって90度、180度、受け取り方が変わってくるだろう。ズートピアは見る人が見たら、ただのかわいいもふもふ刑事モノにしか見えないかもしれない。これはその人の価値観をダイレクトに反射する鏡のような作品だ。ズートピアが言わんとするテーマへの想いの深さも浅はかさも、すべて言葉に表れて出てしまう気がする。ついては私はこれからこのページで、3つのトピックスで私のズートピア感想を綴っていきたいと思うが、自分の価値観がインターネット上に丸裸になってしまうが少し、こわい。

そしてこれは前置きの最後に。私はこの映画にイチャモンをつけるとしたら、ただ一点。「ズートピアは子供が見て楽しめる作品なのだろうか?」という点である。私には子供がいないので、論じようがなく、この観点からの感想は世のお母さんお父さんに任せることにしたい。

では、行きます。

●私は時に他人に偏見を与えたジュディであり、ニックであり、しかし時に偏見をよって傷ついたジュディ、ニック自身であった。差別を与え、また受けるのも同じ私自身の心である。

さてこのズートピア。公開翌日の今日、これをインターネットで検索すると何番目かに出てくる単語は「人種差別」のように思う。しかしズートピアは本当に、巷で言われるような人種差別をテーマにしたお話なのか? 私は違うと感じた。 確かに差別がテーマではある。映画の中でジュディは、自らの種族的な出自により警官になる夢を否定され、ニックもまた種族的な出自によって幼少時に心に深い傷を受ける。しかし、ズートピアの世界でいう「種族」を、そのまま人間世界で当てはめて言うところの「民族・人種」で置き換えるのはとても危険だと感じた。

私はこのズートピアの物語は差別についての物語ではなく、人が他人に抱いてしまう偏見についてのお話であると感じた。決して、人間で言うところの生まれ持った肌の色や、生まれ育った国や場所について云々のお話ではないと感じる。なぜなら、(人種)差別のお話であるとすると、ほぼ単一民族で構成される日本にはこれらの問題は当てはまらないからだ。 しかしこのお話は確かに、日本人である私自身の物語でもある。そう強烈に感じるのだ。

この物語の本質は何か。人が知らず知らずのうちに他者に抱いてしまう偏見を描いているのは明らかだが、しかし主人公のジュディ、彼女は差別主義者ではないということが重要だ。ジュディは心に常に正義を持ち、人にも世の中にも公平であろうと努める道徳心深いウサギだ。しかし物語を通じて、彼女は心のどこかでキツネ(ニック)への偏見を抱いているのが描かれる。物語の終盤で、ジュディが自分でも知らずに抱いていたニックへの偏見は、恐ろしい言葉によって彼女の心の奥底から浮上し、急速に表面化していく。それはニックもまた同様である。

彼らはその心に、他者の外見や出自から得た偏見という差別を持っているが、同時にその偏見によって差別を受けることになる。彼らは常に誰かに差別を与え続ける悪なる存在ではない、そしてまた、誰かから差別を受け続けるかか弱き存在でもない。差別を与えるのも受けるのも、表裏一体の同じ人物である。善は善であり続ける訳ではなく、悪は悪であり続ける訳でもない、私たちは時に善であり、時に悪にもなりうる。そう問われるような作品だ。

●2016年。ディズニーが考える本当のエネミーとは。ヴィランは私たちの善なる心に宿る。

ジュディ、ニック、そして映画に出てくる全ての登場人物らが知らずに抱える他者への偏見。これこそが本作のヴィラン(悪役)であるのだと思う。最終的な黒幕として●●(一応伏字)は登場するが、それは映画の運びとして必要なパーツでしかないと感じた。 言うなれば誤った偏見からくる「恐れ」 それこそが本作のヴィランの本質であるのだと感じる。ジュディがキツネに感じた得体の知れない恐怖。ニックが乗り越えることができずに詐欺師へと身を落としていった過去のトラウマ。彼らの内なる恐怖が、彼らを彼ら自身の心の闇へ、悪の中へとその身を突き落としていく。

2016年、ディズニーが考えるヴィランズはこれまでの作品のように外部からやってくるのではない。分かりやすく主人公の命を狙いに来るのでもない、言葉巧みに悪の誘いをもたらすわけでもない。もはやディズニーの主人公が、外部からもたらされる暴力や恐怖に立ち向かう時代は終わった。

それはアナと雪の女王(Frozen)を見たときにも私が感じたことである。あの作品の表面的なヴィランはハンス王子であったけれども、それと同時にエルサの心の恐怖、自ら心を閉ざしてしまった行動が、ヴィランの本質であったと思う。ベイマックス(Big Hero 6)にもそんなワンシーンがある。いわゆるヒロの闇落ちシーンで、彼は彼の抑えきれない怒りによって、一瞬ではあるが悪へと身を落としかける。もう、善と悪が分かりやすく対立する時代は終わってしまった。この時代、一体何が悪であるのか? それは自らが善であると信じる私たちの心にも宿る「恐怖」である。恐怖はやがて怒りに変わり、攻撃に変わり、人を遠ざけ、人を傷つける。ディズニーはそれをここ数作の長編作品を通じて繰り返し示唆している。

敵は内なる恐怖とわかった。しかしこれに立ちむかうにはどうしたら良いのだろうか? ディズニーは言う。まずは恐怖を知るべきだ、と。己の内なる恐れを直視し、受け入れるべきだと。これがこれまでのディズニー作品とは大きく違うところだ。2000年代以前のディズニープリンセス ヒーローズの多くは、己の中に悪の断片はなかった。彼らは常に強き者であり、悩みはするが迷わず、揺るがず、一点の滲みもない真っ白な善そのものであった。しかしジュディとニックは違う。彼らは恐怖を抱え、心の色は灰色に揺れていく。そしてついにはお互いに己の心の中にあった偏見という大きな誤ちに気づき、それを受け入れ、和解する。

さて、ズートピアの作中、最終的に恐怖に打ち勝つためのキーワードは、知性、理性、そして希望であるのではないかと私は感じた。本作のラストは、本能に打ち勝ち、悪を退けるのはジュディとニックの機転(知性)、そして己の弱き心を制する心や、誤ちを受け入れ和解するお互いへの想像力(理性)であった。そして一番に必要だったのは、他者を信じ、助け合う事で生まれる光り輝くもの。なんと言葉で表現したらいいのか迷うけれど、それこそが「希望」の本質であろう。

混沌たる恐怖と表裏一体の主人公たちが、なぜ悪に落ちず、善でなりえたのか。彼らを善悪に区別するものは知性、理性、希望。ただそれだけである。逆に言えばこの3つを忘れない時、私たちは誰でもディズニーの言うところのヒーローになり得るのだと、ディズニーは指し示しているようにも感じる。私たちはもう、生まれながらの出自に肯定されるプリンセスやプリンスに憧れる必要はない。白馬の王子様に選ばれてプリンセスになり、王女に見初められてプリンスになる必要もない。隠され続けた秘密のプリンセスやプリンスである必要もないのだ。私たちは私たちが己の知性と理性と希望を信じた時、ただそれを自らの心に定義した瞬間に、誰もがディズニーのヒーローたり得る。ディズニーはそれを私たちに示した。

●ディズニーパークスオタクとして私が言いたいこと。ディズニーはもう「次なるステージ」に突入した。でも、OLCは・・・?

映画の感想はまだまだ書きたいこともあるが、長くなるのでこの辺にしておく。(また吐露したくなったらその時に書くとする。今はひとまず・・・)

さて、上記の感想に加えて、私が映画を見終わった瞬間に感じたこともうひとつある。ディズニーはこの映画をもってして、完全に新しい時代へ突入したのだということだ。

今思えば、ブラザーベア(Brother Bear)なんかもテーマ的にかなり意欲的ではあったけれど(あれもある意味、己の中の善と悪とは何かをテーマのひとつとしていたと思う。ラストでちょっとぼやけてしまったが)、ラプンツェル(Tangled)以前と、シュガーラッシュ(Wreck-It Ralph)以降では、明らかにディズニーが作品内で描くテーマが変わってきていると私は感じるのである。アナと雪の女王(Frozen)しかり、ベイマックス(Big Hero 6)しかり。男女の愛や冒険、勧善懲悪などの分かりやすいテーマを脱し、より人間の本質をつく方向へテーマが変わってきているように思う。テーマが変わるということ、それはディズニーが会社として見据えている未来が変わってきた、ということに他ならないのではないか。

ディズニーが何を見据えているのか、その果てしない未来はただの一介のディズニーオタクの私には想像もつかないことだ。でもこの映画を見て、何かを深く感じた人ならば、きっとその未来の一片も感じられるのではないかと思う。それは、私たちが進むべき人類の方向性への道標。ちょっとかっこつけすぎの文字列になってしまったけれど、ディズニーはアニメ作品を通じてそんなことを伝えたいのではないかと私は今ぼんやりと感じている。

ここでちょっと話は脇道に逸れてしまうが、私はディズニーオタクであり、ディズニーパークスオタクである。現在、ディズニーパークスは世界中に展開されているが、いわゆる直営パークス(アナハイムのディズニーランドを原点に、オーランドのWDWやパリ、香港、そして新しくできる上海)と、日本の舞浜を経営するオリエンタルランド(OLC)で経営の方法が違う。直営パークスは文字通りディズニー本社が直営で運営し、OLCはライセンス契約をディズニーと結び、TDRを運営している。

そして今日、私がズートピアを見て直感的に思ったのは、この先5年後、10年後、20年先に、ディズニー本社がブランディングしていく「ディズニーブランド」と、OLCが考える「ディズニー」の間で、危機的な乖離が生じてしまうのではないか?ということだ。ここから先、私が感じた直感的な不安を言葉で書き出して表現するのがとても難しい。難しいがしかし、書き出してみたい。

ディズニーという会社は、まずはじめに映画がありきだ。映画を作り、それを元に直営パークスの運営を行っていく。パークのアトラクションやショーやキャラクターグリーティング、パークが提供するエンターテイメントの多くはディズニー長編映画作品が基になっている。だからやがてはパークの細部のすみずみに、ディズニーの映画作品の魂が宿っていく(と、私は思っている。ここではざっくり簡単に述べたので、実の仕組みはこんなに簡単なものではないが)

長らく世界中のディズニーパークスで続き、今も続いている、長編映画作品を元にしたプリンセスやパイレーツやその他もろもろの作品のパーク展開、そこには常に分かりやすい善と悪の対立があった。そこには女性も男性も、プロトタイプに押し込まれたファンタジーの中の夢見心地よさがあった。すっぱりと割り切った冒険のワクワク感があった。でもこのズートピアを見て感じた。もう、そういう時代は終わってしまった。終わらせたいと願ったのは他でもないディズニー自身なのだ、と。

このように、この先ディズニーはこれまでとは違った未来を見据えて映画を作り、そしてこの先のパークを作っていくだろう。しかしOLCはどうだろう? それについていけるのだろうか? ディズニーが時代を駆け抜けるスピードは想像以上に早い。早かったのだ! 私は今、その事実に驚愕している。 しかし今のままのスピード感ではOLCは到底やっていけないと私は感じる。ついていけるはずがない。ディズニーが見据える壮大な未来と、OLCが今現在パークでやっていることの現状が違いすぎるように思えて仕方ない。ディズニー本社が思い描く「新しいディズニー」と、OLCが現在作っている「ディズニー」ブランドのイメージが、現時点でもすでに大きく食い違ってきているように思う。

私は今、東京ディズニーランドが、東京ディズニーシーが、このままディズニーの旧時代に置いておかれるのではないかと危惧している。置いてけぼりを食らわないためにはまず、私たち日本人ディズニーファンが、ズートピアに象徴される新しいディズニーを受け入れ、それを求めていく必要があるように感じる。

しかし私たち日本人ディズニーファンは、これまでのディズニー作品、これからのディズニー作品、切り離して考えることが果たしてできるだろうか? ディズニーが推し進めていくだろう「新しいディズニー」を求めないファンも、もしかしたら多いかもしれない。TDRが旧時代のディズニー観の(プリンセスやプリンスだけでなく、キャラクターなどを取り巻くディズニーが作り出したあらゆる世界観について)幻想の中に取り残されてしまうことが、今は正直恐ろしい。そこにあるのは、漠然とした正体なき夢と魔法だ。それは危うい幻想だ。目に見える表面上は、これまでと同じ夢と魔法の世界かもしれない。しかしズートピアを見た今なら言える。もうディズニー本社はつかみどころのない夢と魔法の幻想より先の、未来へと向かっている。果たしてOLCはディズニーと共にその未来を目指せるのだろうか・・・。

最後は私の主観的な心象風景の言葉を羅列してしまったが、10年後20年後、今日ズートピアから感じた「新しいディズニー」が、日本も含めた世界中のディズニーパークスで実際に触れ、感じられるよう心から祈りたい。願わくば、ズートピアでジュディとニックが進んだような未来へ、そのような素晴らしい世界へと、パークだけでなく世界中の本質が変わっていくために。そのためにディズニーがこのズートピアという作品を世に送り出し、そして私は今日、何かを感じ取ったのだと。そう思いたい。ジュディとニックにならい、私も彼らの信じた明日への希望を胸に灯し、この感想を締めくくることにしたい。

(2016年4月25日 午後追記)

書き忘れていた。この映画で私が個人的に一番気に入ったのは、ニックが最終的に●●(一応伏字)になるところだ。ちょっとファンタジー過ぎるかなぁと思ってしまうが、アニメだもん。そこはディズニーファンタジーありきでいいのだと感じた。(そこを現実社会に寄せる必要はないと思う、という意味で。)

アメリカ社会ではロバートダウニーJrになど表現されるように、再起を許す風潮が根底にあるようだ。翻って日本では、人が何か大きな失敗を起こした時、決して次の再起を許さない風潮がある。それはまた、自分の失敗を再起をも許されないということに他ならない。特に2016年4月の昨今、芸能ニュースなどで見聞きする話題に心当たりがある人も多いと思う。私は今、重大な死傷事件や悪質性の高い犯罪について語っているわけではない。ただ、人が人として生きる時に、 誰しも一度は過ちを犯し生きていくのは、ある意味では仕方のないことではないのか、ということだ。1つの失敗もせずに、1人の人の心を傷つけずに、これまで聖人たる人生を歩んできた人間など、この世に居るのだろうか? きっと、居ないはずだ。

私たちは失敗する生き物だ、そして何度でも立ち上がれる生き物だ。私たちは本当は何度だって物事にチャレンジできる。私たちにはその権利がある。だから、Try Everything! 今一度日本人である自分として、国内での自分の行動や視点を振り返ってみたい。人を許し許される寛容さを取り戻したいものだ。

(2016年4月25日 記事公開 2016年4月25日 午後追記)

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