【Orbs, Label-Disney】映画COCOにまつわるいくつかの記憶

私の心の中には多分、“ディズニー”と標識の銘打たれたおおきな格納庫がひとつある。
その巨大格納庫の中には、私の幼少期からのディズニーにまつわるメモリーオーブがそれこそ何百何千とぎっしり詰め込まれていて。でもライリーみたいに棚は綺麗に整頓はされていないだろう。足の踏み場のないくらい格納庫はぐちゃぐちゃで、私自身、そこに何のオーブを何個詰め込んじゃったのかはよくわかっていない。

“ディズニー”とラベリングされたその格納庫の扉を開けるとき、私はいつも、少しだけ切ない。
大事なメモリーオーブをふいに足元に見つけて手に取ると、私はこっそりと泣き出してしまいたいような、でもやっぱり最後には微笑んでしまうような、そんな、なんとも言えない気持ちになる。
そんな時、私の中のジョイとサッドネスは抱き合っているのかな。とても複雑で特別な甘い感情に包まれる。

そんなこんなで今週、二年ぶりに「想像国際空港」を弄っていたら、そのラベル“ディズニー”の扉から、あれもこれも引っ張り出してみたくなった。でも前述通り、何が飛び出して出てくるのかは私にもわからない。
だからこれから、ふと思い出した時には、ちょっとずつここに書いていきたい。
ブログ用にひとつテーマを作ってみる。タイトルは、【Orbs,Label-Disney】 
かおりのエモディズニーシリーズの一環です。

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先日、Pixarの最新映画Cocoを見た。今日書くのはその時の話。
映画のネタバレにもちょっとだけ触れてしまうと思うので、未見の方は読まないでください。

本題ここから。
話の入り口はちょっと突飛だけど、私は7年前に実母を亡くしている。

母の享年は六十代前半だった。
一般的に言っても「早逝ね」「若くして亡くなってかわいそうにね」という年齢でもなかったけど、かと言って「大往生ね」という年齢では決してない。
私にとっては唯一のような肉親であり、最愛の母だったから、母を亡くしてしばらくは精神的にまぁまぁしんどい時期が続いた。
母を亡くしたその当時、成人どころかもうとっくに三十を過ぎていた私だったけど、それでもやっぱりしんどかった。
(あぁ、私をよく知る人には「またその話」ってなっちゃうかな・・・。自分でも嫌になるんだけど。でも私は、またか、のこの話を、この先も死ぬまで繰り返して生きていくしかないのだろうと覚悟している。よかったら(よくないけど)時々は付き合って欲しい。)

母を亡くしてしばらくの間は、私はふとした瞬間に母のことを思い出しては涙することがよくあった。
仕事中に泣き出すとかもしていたし、何かの瞬間に、亡くした母の面影を感じては一人でこっそりと流れる涙を拭った。
今思い返せば、単純にロスってただけなんだけど。
当時はその喪失感に向き合うのに精一杯で、辛いもんはどう頑張ってもつらかったからよく泣いていた。

それから7年経って、話は今現在に飛ぶ。
紆余曲折あって母を亡くしてしばらく経ってから私は結婚して、今、子供を産んだ。
そうこうしているうちに、母を亡くした悲しみに浸ることは時々になって、そこからさらに思い出すことすらほんのたまにになって。今じゃ泣くのすら年に一回くらいになったかなぁ。
たった7年前までは母を思っては、あんなに毎日泣いていたのに。
悲しみを癒すのは「時間薬」って、昔の人も上手いことを言ったなぁと思う。私の場合はだけど、薬はよく効いた。

それで先月、映画Cocoを見に行った。
映画を見た人ならわかると思うんだけど、親子の別れや癒えない喪失感なんかもうまく盛り込んでて、とてつもなくエモーショナルな作品だったよね。
わたし、映画を見ている最中から見終わってもずっと、頭の中にはこの間産んだ自分の赤ちゃんのことがぐるぐると回っていた。
Cocoとお父さんのシーンとか、私きっと、スクリーン自体はよく観ていなかったと思う。
子の笑顔の事だけ考えていた。

その事に気が付いたのは、映画を見終わって帰宅して、夕飯に家事にお風呂もすっかり済ませて、さぁ寝ようかと床についた時だった。
『私、Cocoを見て、お母さんのことを一瞬すら思い出さなかった…….!!』
自分の冷たさに愕然とした。
あんなに辛い別れだったのに、もう忘れてしまったの!?
だって、映画のテーマ自体が親子の事そのままだし。それを観て、お母さんのことを思い出しもしないって、どういうことなんだ!
実母のことを忘れてしまっていた自分に酷いショックを受けた。

そして急に思い出した。
それは、私の祖母が亡くなった時の話。
私の祖母、つまり、私の実母の実母が亡くなって数年経ったある日、私は母に聞いたことがあるの。
「おばあちゃんが死んじゃって、寂しくない? また会いたいと思ったりするの?」って。
そうしたら母はこう言った。
「かおりと◯◯(私の妹)が居るから、寂しいと思ったことはない。思い出すこともあまりないのよ。もうかおりが居るからね。」
ふーん…
『冷たいこと言うんだな』
当時私はそう思った。
だって私は、一番大好きなお母さんが死んじゃったら、生きていけないくらい辛いだろうから。
一番好きなお母さんのことを思い出すこともしないなんて、絶対絶対ないよ。
どうしてお母さんは、おばあちゃんのことをもう忘れちゃったみたいに言えるんだろう・・!

だけど今。2018年。たった7年ですっかり私、自分の子供の事だけで頭いっぱいになってしまって。
だって子があまりに愛しくて。可愛くて。大好きで。最高だから。
映画見ながら、私を産んでくれた最愛の母のこと忘れちゃうくらいに、我が子に夢中になっちゃった。

でも。
そっか、お母さんもそうだったんだよね。
今になったらわかったよ。
もし、お母さんが生きていてCocoを見たら、いつか話していたようにおばあちゃんのことは思い出さなかったろう。
きっと一番に私のこと、思い出してくれたよね。

命の不思議な巡り。
「一番大好き」だった人が、いつの間にか変わっていってしまったことを、私は悲しむ必要はないだろう。
愛も、想いも、思い出も、私が知らない創世の時代からこんな風に順番に、順繰り順繰り巡ってきたのだろうか。
そして私が知ることもないだろうこの先も、巡り続けて行くのかな。

祖母から母へ、母から私へ。私が受け取った愛のバトンはいつの日か私の手を過ぎ去って、きっと二度と私の手に戻ってくることはない。
でもそれが、不思議な命の巡りなのね。

ほんと人の命って愛って、不思議よね。私に分かる日なんてくるのかしら。
全く、心底わからんもんだよね。

余談・・・
思いつきのまま書き殴ってみたが。
たまたま今回の思い出話は私の体験について書いたから、私の祖母、母、私、そして、私の子供と、続いていく血の系譜をCocoに重ねて、私の思いを綴ることになっちゃったけど。
でも私自身は、Cocoの中で描かれた血の系譜だけを重要視することには警戒したい。

別に、家族が養子だろうが里親だろうがステップファミリーだろうが、人を愛する時に血の類似性やその濃度は関係ない、ってこと。
血の繋がらない恋人やパートナーや友人、それこそペットや、血よりも深く繋がれた人間じゃない「何か」との愛、それら愛の強固さには血の一滴も関係ない。絶対に。
だってさぁ、もう2018年だよ!
今更、「ハートフル家族の絆♡」って代々の血縁系譜の強さを謳われても、、、ぶっちゃけ若干使い古し感。
まぁそれが今回の映画のテーマだから、と言われたら何も言えないんだけど。

それに、一族の血の結束の祝福は、裏を返せば血で縛られた呪いだよね。
実際、冒頭でミゲルが歌を禁じられた苦しみは、もう血の呪いとかしか言いようがない。
家族、そのなかでも特に親と子って、時に一番残酷な束縛にもなり得るから。束縛通り越しちゃって呪縛みたいになってる親子関係パターンとかよくあるし・・・。
だからまぁ、今私が書いた私自身の愛の話も裏っ返せば、逃れられない、最悪最強の呪いになりうる、ということは(自分に対して)忠告しておきたいです。

ということでCocoについてはまだ言いたいことはなきにしもあらずなんだけど、とりあえず今日私が言いたかったことは書き終わったので、話はここで終わりにしたいと思う。
最後に自戒として余談書いちゃったから興醒めだけど、私はCoco好きですよ!! 音楽最高だしね。
(でもどうしてもこの余談は同時に書かなければならなかったのね。強すぎる愛は常にまた、歪んだ呪いと紙一重なのだから。)

ちなみにここには全然関係ないんだけど。血どころか種族すら超えた真の愛と友情を語る、The Good Dinosaurの美しさを、私は今一度評価し再確認したいと思ってますよ(←最近になって急にめちゃくちゃ推してるらしい) これはまたどっかのチャンスで別記事にて褒めます。